ご由緒

当社は慶長五年(1600)庚子、島津藩主義弘公、関ヶ原合戦より帰陣の途、高岡郷を取立て、その節、高岡郷の鎮守として、鹿児島の稲荷大明神の分霊を天ヶ城中腹に勧請したのがはじまりと伝える。もと稲荷七社大明神と称し、別当寺として稲荷寺を建立し、忠助法師を、鹿児島伊集院より移し開山したが、別当寺は明治三年の廃仏毀釈により廃寺となった。旧藩時代は島津家の祈願所として郷社の格を授けられ、神領二十一石五斗余を寄進、祭礼等総て鹿児島城の稲荷祭に準じ行われ、歴代藩主・領民の厚く尊崇する社であった。
元禄二年(1689)破壊により、元禄七年(1694)五月、神饌所・拝殿再興、更に天明元年(1781)・宝殿・舞殿が再興された。
明治三年二月、神社合併にあたり、平賀大明神・久津良大明神・愛宕山大権現・大将軍神社・天満神社・地主神社六社を合祀し、村社に列せられた。明治三十六年、台風の災害にあい、崇敬者有志の努力によって現在地に鎮座された。平成三十年には傷んだ社殿の改修を地域の有志を始め多くの崇敬者によって令和元年八月に再興され今日に至る。

御祭神


倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
天津児屋根命(あまつこやねのみこと)
天津太玉命(あまつふとだまのみこと)
倭姫命(やまとひめのみこと)
太田命(おおたのみこと)
玉藻前(たまものさき)
保食持神(うけもちのかみ)

三國名勝図鑑より抜粋

稲荷七社大明神祠 地頭館より亥の方、六町に近し、内山村にあり慶長五年、松齢公(島津義弘の法号の一つ)當邑御建置にて一邑鎮守の為摩府の稲荷を分神し、當邑天ヶ城山に勧請せらる。且其別當とて、稲荷寺を建玉ひ、忠助法印を伊集院より(伊集院に於いて某寺の僧なりしや審かならず)移して稲荷寺の開山とす。祭祀も摩府稲荷と同じく、毎年十一月三日に修すべきを命ぜられる。元和元年、大阪の役に、慈眼公(島津家久(忠恒)の法名)軍を発し當邑に留まり、當邑を発し玉ふ時、稲荷社より白狐赤狐出て臼杵郡細島までの中途に毎日軍前に見ゆ。既にして大阪の敗聞にしかば、衆人是當社の嘉護とす。寛永十五年、肥前國島原の役に、當邑の調発す、軍行の先に赤狐見ゆ。然るに、其先に行きし赤狐忽ち帰り来る。又、第二軍発する時、地頭仁禮蔵人、當邑の士衆を従へ、首途に稲荷社へ参詣せしに、白狐赤狐見ゆ。両軍共に出水米之津に至りしに、島原城敗し報来て皆帰軍す。初め前軍の発せし日、赤狐中途より帰るや、蔵人今度の軍より帰軍すべしと伝ひしが、是に至りて果して然り、皆衆稲荷神の霊感とす。社司冨山氏。神社合記 平賀大名神社 五町村横岩にあり 祭神天津児屋根命 天津太玉命、底津少童命、底筒男命、中津少童命、是なり當社の前に一池あり、鏡池と呼ぶ。往古は當邑高福寺の末に鏡池山平賀寺といへる別當寺ありしに、今廃す、祭祀二月彼岸中日、十一月十八日、社司冨山氏。△愛宕山大権現社 内山村中尾にあり、往古修験の徒、日向の霊山を、和州大峯に比して、修入せしが、其時中尾山(池之尾峯の連山)を初入の山とし、繁栄の霊地にて寺院を建立せしが、星霜を歴て廃す。當邑建置の後地頭比志島紀伊守、治城守護の神とし、別當を愛宕山中尾寺と號し、並に當邑高福寺の所轄とす。多く高福寺住持退老所となる。其後、廃し、今は十一月二十四日祭祀を修するのみ。

社殿

元は天ヶ城中腹に鎮座していたが台風の被害により遥拝所であった現在地に遷った。

改修中の社殿・竣工祭

御神輿

現在、天ヶ城資料館に委託し所蔵。

夏祭りの際は各氏子地域で灯籠灯し(ツロトボシ)が掲げられたとされる。